FGOからFate/staynightをプレイした話
私がFate自体の名前を初めて聞いたのはFate/zeroのアニメがヒットした頃だと記憶している。
流行していたため作品タイトルは耳には入っていたが、陰鬱そうな雰囲気と人殺しが横行する様におののいて、当時アニメ視聴にはいたらなかった。あと単純にufotableのエフェクトが効きすぎている画面作りが好みではなかった。
私のFateが更新されることになるのは2017年の元旦のことである。2016年度末にアプリゲームであるFGOの第一章が完結、シナリオの評価の高さからTwitterでおおいに話題を呼んでいた。私もその評判を聞きつけ、元旦の年初めキャンペーンに乗っかる形でゲームをスタートした。
プレイヤー情報としては課金は夏の福袋(矛盾を感じる)で一回のみ、現在配信されている最新の亜種特異点(英霊剣豪七番勝負)までクリア済み。推しの風魔小太郎が大活躍してめちゃくちゃうれしかった。最初から一緒に戦ってきたサーヴァントの一人で、ゲーティア戦ではスキル封印ですごい貢献してくれた、聖杯とフォウくんをあげられるだけあげてるくらい好き。しかも幕間と宝具教化がきてさらにうれしい。
FGOをプレイしていた私がFate/staynightもプレイしようと思ったのは、別段深い理由があるわけではない。Fate自体に興味がわいたところにアプリ版でセイバールートが無料だと聞き、ダウンロードしただけだ。そして気が付いたらと凛ルート、桜ルートまで購入していたのだ。(あまりにもちょろすぎる、カモではないか?)
ここではFGOのゲーム性やストーリーについてや、Fate/staynightの考察について述べない。今回の主題は二つの媒体でFateに触れて変化した心境についてだからだ。以下、Fate/staynightを原作とあらわす。
FGOと原作で大きく異なる点は、サーヴァントとマスターの関係である。原作では基本的に一対一だが、FGOでは一対多数だ。この点が最も綿密に描かれているのはセイバールートであろう。私がまずこれを読んで考えたのは、もしかしてFGOで契約しているサーヴァントたちにもほかの媒体ではアツい契約を結んだマスターがいるんじゃないかということである。
このサーヴァントたち一人ひとりに?と考えると途方もない。自分はそのマスターたち以上に彼ら彼女らに向かい合えるのか?いやこのような一対多数の関係では不可能だ。
次に気になった点が、魔術や魔力、英霊召喚システム、サーヴァントの特性、聖杯の機能といった基本的な世界観の説明がFGOでは深く掘り下げられていないことだ。
原作を読めばわかると思うが、Fateのこの手のルールは少し解釈を取り違えただけで全く別物になってしまうほど厳密な制約になっている。しかしこの制約こそがFateをFateたらしめるアイデンティティではないのか。
例えば、偉人たちを無制限に呼び出しているのではなく、偉人のある側面をクラスという型に押し込めることで降霊可能になるという設定は史実との違いにも説明がつくうまい方法だと思うし、真名を探りながらの戦いは推理の要素も入ってストーリーを複雑にしている。
結論を言おう、原作を読んだらFGOの二次創作が3分の1くらい解釈違いになった。
おそらくこれでアポクリファやら蒼銀を読んだりCCCなどやったりしたらさらに解釈が難解になってしまう。一方で、もしかしたら残りの解釈が一致している二次創作の理解度が何倍にもなって、受けるプラスの影響の総量としては変わらないあるいはむしろ多くなっているかもしれない。なかなかの確率でつらい気持ちになる作品群の中から極上の解釈の一致を探すのはハイリスクハイリターンだろう。
私にはもうガッツがなく、つらい気持ちになる作品という砂漠の砂粒たちの中から「いい作品」という砂金の一粒を見つける旅に出ることはできない。私のFate開拓はここまでにしておきたいと思う。